11 月 17

大河ドラマ「篤姫」も、いよいよ大詰めを迎えています。 薩摩藩島津家の養女から将軍の正室となった篤姫は嘉永6年(1853)年の秋、江戸に向かう途中、秋の京都に立ち寄ります。 篤姫が参拝したと伝わる東福寺の即宗院は室町時代から京都における島津家の菩提寺でした。 またここはドラマで篤姫と深い関わりのある西郷隆盛にゆかりのある場所でもあります。 平安時代 後期に関白藤原忠道(近衛家)がこの地に御所の東御堂を建立しその子、公家九条家の始祖である兼実が山荘「月輪殿]としました。 即宗院の庭はその跡地です。 「紅葉と苔」の美しさに定評のあるこの庭には赤と黄色の『千両」の実が色をそえています。 変わったところでは、唸り声が聞こえそうな松の姿も発見し写真でご紹介していますので、「花情報」欄もごらんなって見てください. 西郷隆盛は慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いに際して、当地に薩摩軍の屯営を構えて、当院の裏山山頂に砲列を敷いて淀から進撃する幕府軍を砲撃して戦果を収めました。 倒幕後に西郷隆盛は明治維新で戦死した524の霊を供養する為に,自ら筆をとって銘文を作り東征戦亡の碑を建立しました。
(写真) 上は庭園 下は西郷隆盛自筆の薩摩藩士東征戦亡の碑
(場所) 東山区本町15丁目 東福寺内 (龍吟庵の隣)
(公開期間) 毎年11月1日~11月30日
written by sakuragai6
11 月 10



東山山頂 (東山ドライブウエー) にある将軍塚大日堂は連休中でも人混みのない、穴場的な観光の名所と言えます。 やはりお勧めは京都市内を見下ろす西展望台からの抜群の眺めです。 ライトアップの期間中に日没前に訪ねると、西山に沈む夕日をバックに情感の漂う夕景から夜景への幕間が楽しめます。 また園内は青蓮院の飛び地境内になっていますが石造りの大日如来を安置する大日堂をはじめ見所は多いです。 桓武天皇が平安京を守るために、高さ2.5mの武将像を土で作り、甲冑を着せ、弓矢に太刀を持たせてここに埋めるように命じられた将軍塚や二つ目の北展望台からの眺め、枯山水の石庭など、そして見逃せないポイントは 「一念松」 です。 写真とともに別途「花情報」欄にアップしましたのでぜひご覧ください。 「人の一念岩をも通す」 の諺がありますが、30年前に巨岩に植えた黒松の苗木が、風雪に耐えて懸命に生きつづけて見事に硬い岩石を貫き通したという松の一念を見せてくれるのです。 この岩の割れ目には一匹の蛇が定住していてその抜け殻を毎年もらい受けにくる人がいるそうです。 (一念松の写真はこのページ上段の自己紹介の右横をクリックしてください ) なお将軍塚の築造の様子を描いた「将軍塚縁起」(鎌倉時代、13世紀)が現在、京都国立博物館で常設展示中です。(12月7日まで)
(写真説明) 上から将軍塚、百万ドルの夜景、ライトアップの園内
ライトアップは12月7日まで。 午後5時~9時30分(昼夜入れ替えなし)
written by sakuragai6
11 月 07



今回のアプローチは千日回峰行の原点とも言える、回峰行のご本尊の不動明王がまします明王堂と回峰行の創始者、相応和尚の廟などです。 まず明王堂参詣では大阿闇梨さまによる護摩供の奉修の間、全員で不動真言を繰り返し合唱し、最後には各人に入念なお加持を頂きました。 続いて法曼院に席を移して一汁三菜のお昼を頂戴しました。 食後は別室で大阿闇梨さま直々のお手前による茶菓をふるまわれ、寛いだ雰囲気のなかで会話を楽しもことができました。 千日回峰行は森閑とした漆黒の闇の中でただ一人山中のお堂を廻る荒行で想像しただけで身の毛がよだつ感じですが、今日までに満行者が49人もおられるのには驚きです。 時には道の脇に寝袋姿で転がっている者や自殺願望で徘徊している者などに遭遇することもあるそうです。 帰途は行者道としてよく知られる無動寺谷で千日回峰行の始祖,相応和尚(そうおうかしょう831年~918年)の塔に参拝しました。 途中には親鸞上人の修行旧跡もありましたが、山腹には紀貫之の墓の標識も眼につきました。 小雨ふる中でしたが同行者も全員が充実した気分で下山することができました。 なお、百日回峰行者さんが洛中の社寺を巡る、京都切廻りルート(赤山禅院からスタート)は計6回に分けての歩きで(本当に凡人の切り廻りになりましたが・・・)道端に点在する石碑なども細かくチェックしながらの完歩でした。
(写真の説明) 上から明王院外観、御護摩の奉修、相応和尚の塔
written by sakuragai6
10 月 27



北山の正伝寺の山門を出てきたら、風が死んでいたことがあった・・・・。 これは立原正秋の絶筆「その年の冬」の中の一節です。 遠くに美しい比叡の山を望み、白砂敷にサツキを敷きつめた枯山水の庭が静寂を演出しています。 この庭園は京都の代表的な借景庭園として京都市の指定名勝になっています。 一方、視線を頭上に向けると痛ましい血痕の広がる血天井が真近かに迫ってきます。 眼を凝らして見ると手のひらをついたと思われる指の跡などが生々しくリアルです。 血液学の権威者の研究によって368年以前の人間の血液斑点の反応から科学的に証明がされたそうです。 (16件の検査対象の中で半分が0型の由,但し2人分は鑑定不能)
写真を見て驚いたのは血に染まる天井板の中に人面とおぼしき白い画像が写っていることです。 妄想と笑われるかも分かりませんが、若しかしたら伏見城で自刃した武士たちの怨念がなせるわざではと背筋に冷たいものを感じました。 そして山門をあとにしたときには、古木を吹き抜ける風が一瞬ざわめいたのです。 何かを訴えるような、この日の風はたしかに生きていました。
(写真説明) 上から血天井、 山門、 獅子の子渡しの庭園、
(場所) 北区西賀茂北鎮守庵町72
written by sakuragai6
10 月 21



万福寺は1654年(江戸時代)に中国の福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川家綱(四代将軍)の崇敬を得て1661年に開創した寺院で、日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、黄檗宗の大本山です。 今月の18日~19日の2日間にわたって京都普度勝会慰霊大祭が行われました。 普度勝会は、毎年秋に行われる在日華橋による先祖供養、施餓鬼供養です。 大雄宝殿の前には、先祖の霊を祀る色鮮やかな飾りをつけた冥宅(みんたく・・紙の家)や供物などが並び、お参りに訪れた人びとがお線香をあげていました。 19日(日)は午後2時から天王殿や伽藍堂、大雄宝殿の前で、雄壮な獅子踊りが奉納され、最後には道化風の布袋尊も登場して、獅子踊りを一段と盛り上げました。 約1時間にわたる獅子などの熱演には目を見張るものがありました。 引き続いて、月台で大施餓鬼法要が営まれましたが、実に異国情緒のあふれるお祭りでした。
(写真説明) 上から「冥宅』などのお飾り、 獅子舞の獅子、獅子と布袋尊の道化師の競演
written by sakuragai6
10 月 07




淀地区には新旧二つの城が築かれていました。 一つは京阪電鉄「淀」駅の北側にあり、いまなお本丸の石垣と内堀の一部が残っていて、かっての姿をとどめています。 もう一つは淀君ゆかりの城でそれは淀駅のそばの淀城址から北へ約500m離れた納所(のうそ)にあつたと推定されています。 前者は徳川秀忠(二代将軍]が元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる水陸の要衝であるこの淀の地に築城しました。 竣工は寛永2年(1625年). 秀忠、家光父子は上洛の途次にこの城を宿所にしています。 その後、享保8年(1723)春日局の子孫である稲葉丹後守正知が移り,明治維新までの百数十年間、稲葉家が淀藩主として居城にしました。 一方、納所にあった城を豊臣秀吉が淀君(茶々)のために修築したのが淀古城で(文録3年[1594]に廃城)、ところは納所小学校北の妙教寺一帯といわれ、学校とお寺の間を流れる川が濠の跡を偲ばせています。 妙教寺の境内には淀古城址の石碑があります。 慶応4年(1868)年、鳥羽伏見の戦いで、東軍の砲弾が妙教寺本堂の外壁と内陣の柱を貫通,さらに方向を変えて壇の下の羽目板を割った、その弾痕がいまもはっきりと残っています。 お寺には、その砲弾(不発弾の由)が保存されているそうです。 なお、観光寺院ではありませんが、前日のアポイントによりご住職に案内をして頂きました。
(写真説明) 上から妙教寺正門、淀古城址の石碑、 京阪淀駅そばの淀城址(石垣と内堀)、
淀城址の石碑
written by sakuragai6
10 月 01




比叡山頂への登り道で「智証大師円珍のご廟」を、また下り道では雲母坂に沿った山の尾根のなかほどにある「水飲対陣の跡碑」と「千種忠顕の戦死の地」を辿ってみました。 前者は天台座主で天台宗寺門派の開祖です。 また後者は南北朝時代の公家。後醍醐天皇の側近で足利勢と戦って戦死した建武中興の功臣です。 山中の道で遭遇したのは樹上で枝葉をゆらす猿が一匹だけでした。 さて、この日のハイライトは何といっても下山の地、赤山禅院で体感できた滅多にお目にかかることのない珍しい「鳴り釜神事」です。 この神事は、祝詞の最中にお釜を焚いて牛の咆哮に似た音をだすのです。 この音の鳴りが悪かったり止んだりした場合は凶兆とされます。 音の鳴っている釜を持って神官が加持を行い赤山内を歩き、祓い清めて「無病息災」「家内安全」の祈願を行うのです。 不思議なのは、なんの仕掛けもなくて、ただ釜で湯を沸かしその上にすのこを敷いたセイロに米を入れ、混ぜるだけで牛やボイラーがうなる様な大きな音がでるのです。 ( どうも音は米と蒸気などの温度差によって生じる振動らしいのですが相当な修行が要りそうです) 神事の後は居合わせた人々に、祭事のお米とお釜の湯が振る舞われました。 お茶ではなくて、ただのお湯なのですがこれがなんとも爽やかな味で山道の疲れを完全に癒してくれました。
(写真説明) 上から比叡山の山頂、智証大師の御廟、千種忠顕戦死の地碑、
赤山禅院の鳴り釜神事
written by sakuragai6
\\ tags: Add new tag
9 月 25




西陣にある浄土院は 「茶くれん寺」 の名で呼ばれ、通称寺の代名詞のようになっていますが、もうひとつの「茶くれん寺」が八幡市橋本にもあります。 (正式の寺名は西遊寺) 前者のいわれは豊臣秀吉が九州征伐を記念して北野天満宮の茶会に出席した帰りに寺に立ち寄りお茶を所望したところ、当時の住職が茶人の秀吉に未熟な茶をだすのをためらい、さゆばかり出したそうです。 秀吉は住職の思いをくみ「ここは、お茶をくれん。湯たくさん茶くれん」といつた由。 以来、山号と寺名の組み合わせのように「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったそうです。 なお、お寺の屋根には楽長次郎の作とされる唐の僧侶、寒山、拾得をかたどった像がおかれていますので見逃せません。 また後者は秀吉が天王山で明智光秀と戦った山崎の合戦の際に当寺に立ち寄り、お茶を所望したところ同様にお湯ばかりが沢山でたそうです。 前者ともども秀吉の洒落から通称名になったようです。 またこのお寺の敷地には鳥羽伏見の戦いの時に南方のくずはにあった幕府軍の本陣(久修園院)の砲台弾薬庫が移築されており、現在もそのまま残っていますので一見の価値があります。 京阪電車の橋本駅の改札口の前に立つ石碑には「湯沢山茶久蓮寺」と漢字で書かれており、また横面には昔の粋人にとって懐かしい「橋本渡舟場3丁」との表示があります。
( 写真説明) 上から京阪橋本駅前の石碑(西遊寺の向かい側)、西遊寺正面入り口、
浄土院正面入り口、屋根の像
(場所) 浄土院は上京区今出川通り千本西入北側
西遊寺は八幡市橋本中ノ町46番地
written by sakuragai6
9 月 14


鴨川の源流の地、洛北の雲ケ畑は京都バスで出町柳から岩屋橋まで約50分の距離なのですが、1日往復6便しかないので効率的な日帰りには工夫がいります。 バス停から約1.5キロの行程。 志明院の前にある貼り紙の 「熊の出没に注意!」 を見ると山奥にいるのだとの実感が湧きます。 寺伝によれば役行者が創建(650年)、後に弘法大師が惇和天皇の命で再興(829)したとのこと。 本堂には空海の直作と伝える本尊で日本最古の不動明王が、また奥院の根本中院には菅原道真の手彫りと伝える眼力不動明王が安置されています。 また境内には歌舞伎「鳴神」で有名な鳴神上人が竜神を閉じ込めた所と伝えられる護摩洞窟があります。 うっそうたる老木の生い茂る中に巨岩や怪石がむらがりそそりたつのを横目に石段を上がると岩壁に架設した舞台造りの足場があり、暗い洞窟の奥に眼をこらすと目指す鴨川の源流の湧き水が現れます。 全山が修験道の行場のため楼門からの外観をのぞいて撮影は禁じられており、霊泉などの感動的な写真をご紹介できないのは残念ですが百聞よりも一見にしかずです。 そのほか近隣の社寺としては、岩屋橋を渡ったところに惟喬親王(文徳天皇の第一皇子)の霊を祀った惟喬神社が、またバス停、中畑の近くには親王が閑居されていた高雲寺址などがあります。
( 写真説明) 上は岩屋山志明院の楼門
下は高雲寺址の石段、登り口
(場所) 北区雲ケ畑井谷町
(宗派) 岩屋山不動教の単立寺院
written by sakuragai6
8 月 09


松林寺の本堂は門から石段を下がって2mほど低い位置にあります。 また墓地は更に1m余り低くなっています。 これは
この一帯が秀吉が造営した聚楽第の外堀であった名残なのです。 このお寺は通称「やす寺」と呼ばれる浄土宗の寺院で本尊の阿弥陀如来は聖徳太子作と伝えられています。 開基の清印上人が重病の母親の回復を祈願すると、薬師如来が現れて蘇命散の薬法を授けたと言われ婦人病や安産に効果のある薬が寺で販売されていたそうです。 またこのお寺は幕末の京都、近江屋で坂本竜馬を襲って斬殺した京都見廻組の与頭、佐々木只三郎が寓居していた場所でもあります。 襲撃の後、何食わぬ顔でお寺に引き上げていたのかも判りません。 余談ですがお寺の南側の通りにある山中油店のショーウィンドーには、昭和20年6月の西陣空襲でアメリカのB29が投下した爆弾の破片が展示されています。 (当時の被害は死者50名を含め被災者は850名にも達したそうです) 時あたかも広島の原爆投下が昭和20年8月6日,長崎が今日の9日です。 意外なところで戦争の傷跡などに触れて、しんみりとさせられました。
(写真説明) 上は表門と「聚楽第南外濠跡」の石碑
下は段差のある本堂と墓地への道
(住所) 上京区新出水通り智恵光院西入る分銅町
written by sakuragai6
コメント