5月 31

「間人」は京都府京丹後市にあり、「たいざ」と読みます。 全国でも有数の難解地名として知ら

れています。  飛鳥時代に聖徳太子の母、間人(はしうど)皇后が仏教を巡る争いに巻き込ま

れ身の危険を感じ、自らの領地で大浜の里と言われたこの地に一時的に身を寄せられました。

戦いが終わって皇后が大和に帰還(=退座)されるときにこの地に自分の名前を贈られたそう

です。  しかし里人は「はしうど」と呼び捨てにする失礼を避けて”退座”にちなんで「たいざ」と

発音することにしたのが名前の由来です。 丹後半島の先端近い間人港は京都府の最北の町

で冬期は間人ガ二(ズワイガニ)が、また夏季は海水浴と白イカの刺身が人気の的です。

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    日本海が広がる巨岩として有名な立岩のそばの砂浜

    に立つ 間人皇后と聖徳太子のブロンズ(高さ3.5m)

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  間人の名勝、城嶋 (城跡や神社があり周囲4キロメートル

  古くは浮嶋と呼ばれ日本海を航行する船の目印とされました)

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    松におおわれた風光明媚な城嶋。 浜の白砂に混じって

    「さくらがい」 も散見できます。

 

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4月 13

志賀直哉は宮城県石巻市の出身で白樺派を代表する作家の一人です。 短編「城崎にて」で

著名ですが、長編小説は「暗夜行路」が代表作です。 暗夜行路を書く前には京都をたびたび

訪れ何日か滞在していますが、大正12年に京都に転居し粟田口三条坊に、その後は山科の

竹鼻に約2年ほど住んでいます。  この間に「山科の記憶」など短い随想を執筆しています。

「暗夜行路」の主人公、時任謙作は自分の暗い出生の秘密を知り苦悩しますが京都に来てみ

て初めていくらか救われた気持ちになったと述懐しています。 これはおそらく作者の投影とも

いえそうです。   ”山科川の小さい流れについて来ると、月は高く、寒い風が刈田を渡って吹

いた”  これは「山科の記憶」の一節ですが現地には志賀直哉旧居跡の石碑が建っていま

す。

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 志賀直哉旧居跡の石碑 (大正12年10月から同14年4月

 間で当地に居住、ここでの体験をもとに「山科の記憶」「痴情」

「晩秋」など一連の作品が生まれました。)

(場所)  山科区竹鼻立原町

 

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4月 05

JR関西線の笠置駅から東に少し歩くと笠置山の登山口。 1キロほどの急坂を登ると頂上の

笠置寺に辿り着きます。 全山が花崗岩からなり山中には奇岩、怪石がいたるところにありま

すが、ここの見どころは何といっても磨崖仏です。  伝説では天智天皇の子、大友皇子が鹿

を追い山に分け入って気がつくと断崖絶壁に立って進退が窮まった状態になります。 皇子

は必死に神仏の加護を祈願してなんとか難をのがれました。 後の印として笠を岩上においた

のが笠置の由来で皇子はその後に再訪して巨岩に弥勒菩薩を彫り仏堂を建立したそうです。

また笠置城は南北朝時代の元弘元年(1331)に後醍醐天皇が立て篭った城です。

      ”さしてゆく笠置の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし” 

                        (後醍醐天皇、笠置落ちの和歌)

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    木津川の南岸に笠を伏せたような姿をみせる笠置山
 

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            笠置寺の虚空蔵磨崖仏

   
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 太平記の見せ場 「元弘の乱合戦」 をリアルな人形で表現

     (JR笠置駅前の桜の木をバックに展開しています)
 

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3月 29

「はねず」 とは梅の薄紅色を指し随心院の梅園の名も意味します。

「はねず踊りの歌」 は有名な深草の少将の百夜通いをモチーフにしたものですが一般に知

られている話とは少し違います。 つまり小町のところに98夜通い続け99日目の大雪の日に

代役を立てたのが発覚して少将は小町に振られます。   江戸前期に始まったこの踊りは

毎年3月の最終日曜日に小野小町に扮した少女たちによって優雅な舞が披露されます。  

小野小町は世界3大美人の一人に数えられ、古今和歌集では6歌仙にも名を連ねていますが

当院にはゆかりの遺跡が多くあります。 境内にある化粧の井戸、文塚などや本堂の能の間

にある卒塔婆小町や文張地蔵尊などです。  

小町伝説は全国に点在しますが京都府内ではお墓が4箇所と絵画・像などが2箇所に見られ

ます。  ” 花の色はうつりにけりないたずらに わが身世にふるながめせし間に” (歌碑)

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             随心院の 「 はねず踊り 」             

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          小野小町の化粧井戸 (境内の西南)

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           小野小町の文塚 (境内の東)

( 参考)   小野小町のお墓がある3寺院と公園およびその他がある2寺院

        随心院(山科区小野御霊町)      小町九相図 (安楽寺・・左京区鹿ケ谷)

        欣浄寺(伏見区西桝屋町)        小町像 退耕庵(東福寺の塔頭)

        補陀洛寺(左京区静市市原町 通称小町寺)

        小町公園(京丹後市大宮町)・・全国の小町伝説の分布図が圧巻です。

       

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3月 09

上田秋成(うえだあきなり)は雨月物語の作者として有名ですが江戸時代の後期の浮世草紙・

読本の作者でありまた歌人、国学者としても知られています。 大阪の町人だった彼が京都

に移住したのは60歳も過ぎた寛政5年(1793)6月のことです。  知恩院の門前や南禅寺の

山内など数次にわたって転居しています。  何故か作家や芸能人には引越し魔が多いようで

すが「居は気を移す、衣は心を変える」ということで創作活動のリフレッシユになるのでしょう。

京都での作品には読本「春雨物語」などがあります。 晩年は寺町広小路の友人、羽倉信美

(伏見稲荷大社社家)邸内で没しました。  なお没後200年によせて今夏に上田秋成展が

京都国立博物館で予定されています。  (平成22年7月17日~8月29日)

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   上田秋成の陶像

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        南禅寺草川町にある西福寺の正面入り口

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  西福寺の本堂裏にある秋成の墓(上田無腸翁之墓と刻字)
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        梨木神社の境内にある上田秋成の歌碑

 ( ふみよめば絵を巻きみればかにかくに昔の人のしのばるるかな )

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2月 12

山科区にある花山稲荷の初午祭で珍しい鳴り釜神事が行われました。 雨月物語にも登場

するこの神事は、祝詞を奏上しながら釜でお湯を沸かしその上に、すのこを敷いたセイロに米

を入れて混ぜ不思議な音をだしてその年の吉凶を占うものです。    物語の文中に ”吉祥

(よきさが)には釜の鳴音、牛の吼るが如し。 凶きは釜に音なし。  これを吉備津の御釜祓と

いう。”   宮司さんの言によれば今年は鳴動が短いので、あまり良い年とは云えないから心

して日々を過ごされるようにとのことです。  なお当神社には大石良雄ゆかりの鳥居や血判石

などの見所もあります。              (場所    山科区西野山欠ノ上町65)

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             本殿の鳴り釜神事             
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            大石良雄の断食石

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   本殿の裏側に保存されている大石良雄奉納の鳥居

   

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1月 30

御池大橋の西詰めには夏目漱石の句碑が建っていますが京都に住む人にも意外に知られて

いないようです。  「春の川を隔てて男女哉」 これは繩手新橋の御茶屋「大友」の女将である

磯田多佳との行き違いを詠んだものです。  漱石が京都を描いた唯一の小説 「虞美人草」

では比叡山を 「恐ろしいがんこな山だなあ」 と語り、保津川下りでは口語と文語の混淆した

絶妙な描写があります。  いま平等院のミュージアムで京都の文人日記が公開されています

(平成22年4月16日まで) が漱石の手紙には 「見るところは多く候、時は足らず候、便通は無

之候、胃は痛み候」としたためています。  御池の句碑は最近,駒札が添えられましたので少

しはその存在が分かり易くなったのではないでしょうか。

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    御池大橋の西から 東北をのぞむ東山と漱石の句碑         

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     保津川下り (頭の上には山城を屏風と囲う春の山が

     聳えている。逼りたる水は已むなく山と山の間に入る。)

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       円通寺の借景庭園に見る比叡山

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1月 16

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」 世の無常と人生のはかなさを

語る有名な書き出しに始まり、鴨長明は方丈記の中で京都で体験した一代記を自分史として

まとめています。   下鴨神社の祢宜(神職の総称)の家に生まれながら約束されたはず

の跡継ぎの道を閉ざされるという苦い経験もした長明は50歳の時に出家して、大原に隠とんし

ました。   その後日野の山中の庵に身を寄せて最低の生活をしながら終わりの棲家で心の

安らぎを取り戻していくのです。  幼少から和歌にもすぐれ新古今和歌集に 「石川や瀬見の

小川のきよければ月も流れをたずねてぞすむ」 をはじめ十首が採録されています。e6b2b3e59088e7a59ee7a4bee9b4a8e995b7e6988ee5bab5

     鴨長明庵の復元 (河合神社内)  方丈は1丈(約3m)     

     四方、四畳半ほどの広さです。

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      (上) は伏見区日野の山中にある庵跡の方丈石の碑

      (下) は鴨長明像 (河合神社内)

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10月 15

その①  京都御所で土足参内

平成21年10月12日、「千日回峰行」を達成した大阿闍梨光永圓道さんがわらじ履きの行者姿で

京都御所に参内して国の安泰などを祈願しました。 「土足参内」はこの荒行を満行した者だけに

許される儀式です。

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  蓮華笠に白い浄衣を着て御所に向かう大阿闍梨

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その②  アートのオークション

同日に京都高島屋では京都の芸大生や若手作家を支援するためのKyoto Current展が

開かれました。 作品の製作、展示、販売を同時に行う京都では初めての試みでした。

売り上げの50%はアーチストへ。   信三郎帆布などが協力していました。

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        イベントに一役買う舞妓さん

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2月 07

韋駄天も走り坊さんも足が自慢ということで対比的に取り上げてみました。   韋駄天はお釈迦さまが亡くなったときに捷疾鬼という足の早い者が遺骨を奪って須弥山へ逃げました。  それを見た韋駄天が一瞬のうちに頂上まで追いかけて無事に取り戻しました。 約132万kmを一瞬のうちに走ったのでその足の速さが有名になり韋駄天走りという言葉が生まれました。       なお写真は万福寺の天王殿の裏側に安置されている、かつこいい韋駄天です。  仏像のまわりに金網が張られているのはあまりの色男で夜な夜なお寺を抜け出しては艶っぽい遊びをするので閉じ込められているのだそうです。    一方、左京区の大蓮寺の走り坊さんは現在のように交通が発達していなかった頃、お寺に訪れるのが困難な妊婦さんの為に安産のお札を市中を走りながら宅配をしたそうです。 一日に約60kmを走る超人的な健脚でまた大食漢で大酒豪でもあった由です。        大正7年(1918)に亡くなった時は新聞が大きく報じて葬儀には参列者が絶えなかったそうです。  写真の絵は本人と一緒に生活していた、19世住職の証言を基にして平成20年に描かれたものです。     身長は143cm、左手に番傘を抱え右手に扇子をかざしながら調子をとって駆け廻ったそうです。

(写真説明)    上は万福寺の韋駄天像  下は大蓮寺の走り坊さん

(住所 )      万福寺   宇治市五ヶ庄三番割34

            大蓮寺   左京区東山二条西入一筋目下ル

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