3 月 09
上田秋成(うえだあきなり)は雨月物語の作者として有名ですが江戸時代の後期の浮世草紙・
読本の作者でありまた歌人、国学者としても知られています。 大阪の町人だった彼が京都
に移住したのは60歳も過ぎた寛政5年(1793)6月のことです。 知恩院の門前や南禅寺の
山内など数次にわたって転居しています。 何故か作家や芸能人には引越し魔が多いようで
すが「居は気を移す、衣は心を変える」ということで創作活動のリフレッシユになるのでしょう。
京都での作品には読本「春雨物語」などがあります。 晩年は寺町広小路の友人、羽倉信美
(伏見稲荷大社社家)邸内で没しました。 なお没後200年によせて今夏に上田秋成展が
京都国立博物館で予定されています。 (平成22年7月17日~8月29日)

上田秋成の陶像

南禅寺草川町にある西福寺の正面入り口

西福寺の本堂裏にある秋成の墓(上田無腸翁之墓と刻字)

梨木神社の境内にある上田秋成の歌碑
( ふみよめば絵を巻きみればかにかくに昔の人のしのばるるかな )
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2 月 12
山科区にある花山稲荷の初午祭で珍しい鳴り釜神事が行われました。 雨月物語にも登場
するこの神事は、祝詞を奏上しながら釜でお湯を沸かしその上に、すのこを敷いたセイロに米
を入れて混ぜ不思議な音をだしてその年の吉凶を占うものです。 物語の文中に ”吉祥
(よきさが)には釜の鳴音、牛の吼るが如し。 凶きは釜に音なし。 これを吉備津の御釜祓と
いう。” 宮司さんの言によれば今年は鳴動が短いので、あまり良い年とは云えないから心
して日々を過ごされるようにとのことです。 なお当神社には大石良雄ゆかりの鳥居や血判石
などの見所もあります。 (場所 山科区西野山欠ノ上町65)

本殿の鳴り釜神事
大石良雄の断食石

本殿の裏側に保存されている大石良雄奉納の鳥居
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1 月 30
御池大橋の西詰めには夏目漱石の句碑が建っていますが京都に住む人にも意外に知られて
いないようです。 「春の川を隔てて男女哉」 これは繩手新橋の御茶屋「大友」の女将である
磯田多佳との行き違いを詠んだものです。 漱石が京都を描いた唯一の小説 「虞美人草」
では比叡山を 「恐ろしいがんこな山だなあ」 と語り、保津川下りでは口語と文語の混淆した
絶妙な描写があります。 いま平等院のミュージアムで京都の文人日記が公開されています
(平成22年4月16日まで) が漱石の手紙には 「見るところは多く候、時は足らず候、便通は無
之候、胃は痛み候」としたためています。 御池の句碑は最近,駒札が添えられましたので少
しはその存在が分かり易くなったのではないでしょうか。
御池大橋の西から 東北をのぞむ東山と漱石の句碑

保津川下り (頭の上には山城を屏風と囲う春の山が
聳えている。逼りたる水は已むなく山と山の間に入る。)

円通寺の借景庭園に見る比叡山
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1 月 16
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」 世の無常と人生のはかなさを
語る有名な書き出しに始まり、鴨長明は方丈記の中で京都で体験した一代記を自分史として
まとめています。 下鴨神社の祢宜(神職の総称)の家に生まれながら約束されたはず
の跡継ぎの道を閉ざされるという苦い経験もした長明は50歳の時に出家して、大原に隠とんし
ました。 その後日野の山中の庵に身を寄せて最低の生活をしながら終わりの棲家で心の
安らぎを取り戻していくのです。 幼少から和歌にもすぐれ新古今和歌集に 「石川や瀬見の
小川のきよければ月も流れをたずねてぞすむ」 をはじめ十首が採録されています。
鴨長明庵の復元 (河合神社内) 方丈は1丈(約3m)
四方、四畳半ほどの広さです。


(上) は伏見区日野の山中にある庵跡の方丈石の碑
(下) は鴨長明像 (河合神社内)
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10 月 15
その① 京都御所で土足参内
平成21年10月12日、「千日回峰行」を達成した大阿闍梨光永圓道さんがわらじ履きの行者姿で
京都御所に参内して国の安泰などを祈願しました。 「土足参内」はこの荒行を満行した者だけに
許される儀式です。

蓮華笠に白い浄衣を着て御所に向かう大阿闍梨

その② アートのオークション
同日に京都高島屋では京都の芸大生や若手作家を支援するためのKyoto Current展が
開かれました。 作品の製作、展示、販売を同時に行う京都では初めての試みでした。
売り上げの50%はアーチストへ。 信三郎帆布などが協力していました。

イベントに一役買う舞妓さん
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2 月 07


韋駄天も走り坊さんも足が自慢ということで対比的に取り上げてみました。 韋駄天はお釈迦さまが亡くなったときに捷疾鬼という足の早い者が遺骨を奪って須弥山へ逃げました。 それを見た韋駄天が一瞬のうちに頂上まで追いかけて無事に取り戻しました。 約132万kmを一瞬のうちに走ったのでその足の速さが有名になり韋駄天走りという言葉が生まれました。 なお写真は万福寺の天王殿の裏側に安置されている、かつこいい韋駄天です。 仏像のまわりに金網が張られているのはあまりの色男で夜な夜なお寺を抜け出しては艶っぽい遊びをするので閉じ込められているのだそうです。 一方、左京区の大蓮寺の走り坊さんは現在のように交通が発達していなかった頃、お寺に訪れるのが困難な妊婦さんの為に安産のお札を市中を走りながら宅配をしたそうです。 一日に約60kmを走る超人的な健脚でまた大食漢で大酒豪でもあった由です。 大正7年(1918)に亡くなった時は新聞が大きく報じて葬儀には参列者が絶えなかったそうです。 写真の絵は本人と一緒に生活していた、19世住職の証言を基にして平成20年に描かれたものです。 身長は143cm、左手に番傘を抱え右手に扇子をかざしながら調子をとって駆け廻ったそうです。
(写真説明) 上は万福寺の韋駄天像 下は大蓮寺の走り坊さん
(住所 ) 万福寺 宇治市五ヶ庄三番割34
大蓮寺 左京区東山二条西入一筋目下ル
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1 月 11


陶芸家、河井寛次郎の世界を紹介する記念館です。 設計から内装、調度品まで自らがデザインした自宅兼工房で作品も多数展示されています。 ご本人は明治23(1890)年に島根県の安来に生まれ、京都陶磁器試験場で研究、製作に励んだ後、この地に居をかまえて昭和41(1966)年に亡くなるまで作品を作りつづけました。 作風は奔放且つダイナミックで1937年に「鉄辰砂草図壷」がパリ万博でグランプリを受賞の他、1957年にはミラノ・トリエンナーレ国際工芸展で『白地草花絵扁壷」がグランプリを受賞するなど輝かしい足跡を残しています。 しかし本人は文化勲章を辞退するなど、無位無冠の陶工として生涯を創作活動に従事しました。 一階は囲炉裏や吹き抜けのある板の間,二階は書斎と居間になっています。 感動的なのは陶房の奥にある大きな登り窯です。(写真下) いまではなかなかお目にかかることはできません。 昭和30年代に登り窯から出る煙が公害として問題になり、多くの窯元は山科の清水焼団地へ移転しました。 現在も五条通の北側や大和大路から東大路にかけて陶器を扱う店が多く並んでいます。 毎年8月に開催される「五条坂陶器祭り」は大勢の人で賑わい京の風物詩の一つになっています。 「土と炎の人」と呼ばれ「驚いている自分に驚いている」と語った寛次郎はその生涯を通じて感動を失わない心の持ち主であったそうです。 彼の生活の場を訪ねて美意識の原点にふれてみるのも一興かと思います。
(場所) 東山区五条坂鐘鋳町
(写真説明) 上は正面入り口 下は登り窯
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12 月 31



おなじみの石川五右衛門は安土桃山時代に出没した盗賊で豊臣秀吉の寝室に忍び込んだ際に香炉が鳴って捕らえられ釜ゆでの刑に処されたといわれています。 秀吉に 「本当の大泥棒は天下を盗ったお前だ」 と言い放った由。 盗賊の彼が人気を博した理由は、お芝居などの演題としてとりあげられ、義賊として扱われるようになったからです。 歌舞伎 「楼門五三桐」 山門の場で 「絶景かな絶景かな。春の眺めは値千金とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目から見れば、値万両、万々両。~」 と煙管片手の見得切りや辞世の句 「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」 などは有名です。 (ただし実際には南禅寺の山門の建立は五右衛門の死後の1628年です。) その① 藤森神社の手水鉢の由来 神社の駒札によれば水鉢の台石は宇治浮島の十三重の塔の上から五番目の石を五右衛門が持ってきたものと記されています。 (真偽のほどは別として塔を地上から見あげるかぎりでは、石の色が変色しているようには見えないのですが) その② 釜ヶ淵 東九条の東部を北から南に流れる高瀬川が鴨川に合流する所に処刑された釜が流れ着いたと伝えられています。 (釜を使った五右衛門風呂は最近では時代劇の映像でしかみられなくなりましたね) その③ 東寺の宝蔵 食堂の東にある文覚上人再建のもの。 伝説では五右衛門が盗み入ろうとしたが「文覚上人」の威力によって入れなかった由。 その④ 盗難除け 釜茹での刑の日が12月12日。 この字を紙に書いて上下逆さにして玄関に貼っておくと泥棒除けの効用があるそうです。 その⑤ 大雲院のお墓 彼が刑場に赴く途中、当寺の門前を通りかかって、貞安上人の教化を受け、感涙したことから、死後、当寺に埋葬したそうです。 (大雲院については平成20年5月26日付のブログをご参照ください。)
(写真説明) 上から南禅寺の山門 (京都新聞の京の門より)
宇治浮島の十三重の石塔
藤森神社の手水鉢と台石(底にある苔生す石です)
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12 月 21



“ 日本に京都があってよかった ” これは京都市が発信のキャッチフレーズです。
京都は第二次大戦中、六大都市の中で唯一、戦略爆撃を受けなかった百万都市ですが、実はその京都が原爆投下の標的の第一に挙げられていたことを知る人は少ないようです。 そしてその当時アメリカの陸軍長官であったヘンリー・スティムソンが京都への投下を食い止めたことを知る人も少ないのです。 でもこれらの事実は特に京都の住人として知っておくべき重要なことだと思います。 終戦前マンハッタンプロジェクトと呼ばれる委員会(空軍士官3名と科学者5人で構成)が1945年5月2日にワシントンで会合し、原爆の標的にする都市を決めていました. そして標的委員会が第三回目の会合であげた標的は京都、長崎、新潟の順でした。 京都の場合の具体的なターゲットは梅小路蒸気機関車庫とターンテーブル(転車台)とされていました。 それは上空から見分けやすく、京都盆地のほぼ中央にあり、原爆の破壊力を試すには絶好の位置だったからです。 しかしこのリストを見たスティムソンは京都は歴史的な都市であり、日本人の宗教の中心地であると強く反対しました。 3日後の委員会でも他の委員が強く京都を主張し、それを支持する者もいて会議は紛糾しました。 そこでスティムソンは京都を標的から外すよう2度にわたってトルーマン大統領に要請して了解を得たのです。 若しこの人物がいなかったら、日本の文化の中核が壊滅していたかもしれないのです。
(写真説明) 上は故ヘンリー・スティムソン氏
中央は京都タワーから見た京都市内
下は梅小路蒸気機関車舘の扇形車庫と転車台
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9 月 20

桂小五郎([1833~1877、後の木戸孝允)は長州藩士で吉田松陰の門下生。 尊攘倒幕運動に指導的役割をはたし西郷隆盛、大久保利道とともに維新の三傑と言われています。 禁門の変で活躍し池田屋事件では新撰組に襲われましたが逃げのび、のちに坂本龍馬のあっせんで薩長連合の密約を結び倒幕派の結束を図りました。 長州藩の京屋敷は現京都ホテルオークラの敷地になっています。(長州藩屋敷跡の石碑があります) 桂小五郎の銅像は写真の通りホテルの西側に建っているのですが、意外に知る人が少ないのです。 禁門の変で京をひきあげた長州勢のうち桂小五郎は芸妓,幾松に助けられて幾度か新撰組の切り込みを逃れました。 幕末維新に命をかけた二人のロマンスはいまも語り継がれているところです。 木戸孝允は土手町夷川上るの別邸で没。 現在京都市の職員会館「かもがわ」の入り口南側に一部の屋敷が残っています。 なお東山霊山に墓碑があります。
(写真説明) 上 は桂小五郎の像 下 は木戸孝允の屋敷跡
written by sakuragai6
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