二条城は四つもあった。 ~旧二条城の残影~

歴史に出てくる二条城はひとつだけではありません。  現在の二条城は家康の建てたもの

で霞城(かすみじょう)というニックネームがついていたいたそうです。  また信長は二つの

城 (旧二条城と二条殿)を秀吉は妙顯寺城〔聚楽第ができるまでの政庁の機能)を建ててい

ます。 京都人でも混同し易いのは無理からぬことでしょう。 今回は信長が足利義昭のた

めに建てた旧二条城 〔別名二条御所)に用いられていた石垣を追跡調査してみました。   

なお現在の二条城以外の城跡はそれぞれの場所を示す石碑が残っていますので写真と簡

単な説明を加えておきます。

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  現在の二条城の中に置かれている旧二条城の石垣です。

  敷地の西端、手洗の左手で気がつく人は少ないです。

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 洛西の竹林公園にある石仏群。説明版には信長は多数の石仏

 を倒し、首に縄をつけて城の工事場に引かしたとあります。

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  京都御苑の南西にある旧二条城の石垣、25千人を動員して

  僅か70日で完成したという。

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  秀吉の妙顯寺城跡の石碑。 場所は中京区押小路通り小川

 西入北(古城町の町名が残っています。 現西福寺)

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 旧二条城跡石碑 ( 上京区下立売通り烏丸西入る 平安女学院の西角)

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 信長の二条殿跡 〔別名二条御新造) 本能寺の変に際して

 信忠が籠城して戦った場所。 (中京区両替町通り御池上ル東側)

sakuragai6 の紹介

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二条城は四つもあった。 ~旧二条城の残影~ への2件のコメント

  1. oota yosi より:

    二条城は4つもあったんですね。写真入りですので、よくわかりました。ありがとうございます。
     ひとつ質問なんですが、公卿の山科言継が言継卿記日記で、信長が建てた二条第が勘解由小路室町の真如堂(極楽寺)跡地と記しているんですが、斯波氏の武衛陣跡地に足利義輝が邸宅とした地に二条第が建てられたのとは違うんですか?もし分かりましたら、お知らせください。

  2. sakuragai6 より:

    oota yosi様
    ご存知のように、勘解由小路室町は下立売室町のことですので、ここは、元斯波邸のあったところで、足利13代将軍義輝が公方としての自邸を営んでいた場所です。「上杉本屏風」に幼い義輝が鶏合せを見物している一齣が描かれていることでも知られ、現に武衛陣町という町名も残っています。
    この義輝邸のあった場所を大きく拡大して、信長が15代将軍となった義昭のために、旧二条城(武家御城)を造りました。
    一方、真如堂はあちこちに移転して、町名は上京区寺町今出川下ルに残っています。
    『京都市の地名』によれば、仰るように「1503年、かつて寺地とした一
    条町にに再び移転、本堂が上棟されたが、織田信長の旧二条城の替地を与えられ(言継卿記)、更に1587年、秀吉の命で京極今出川に移され・・・」という説明文があります。
    問題は、当時の一条町という町名がどこに所在していたのか、『京都市の地名』には説明がありません。
    信長の建てた武家御城の北辺は、概ね出水通くらいにあったとどこかに書いてあった記憶が残ってはいるものの、もし一条町=一条通付近だったとすれば、出水よりはだいぶん北になります。
    『言継卿記』は当時の一級史料と評価されているので、間違いはないと思うものの、別の何か信用できる史料が見つからないのが残念です。
    ここからは根拠のない勝手な解釈です。
    もし仮に、一条町=一条町通と解釈すれば、今なら一条新町ということになるわけですが、それでも両者の間にはかなりの空間があるのは事実です。
    そこで更に一条町の一条を、一条と二条の間の地域を指すと解釈すると、両者の間の空間がかなり狭められ、武家御城建設で真如堂が移転するのが現実的になります。
    したがって、『言継卿記』が正しいとすれば、一条町をここまで拡大して整合性を図るしかないように思います。
    あるいは、両者に相当な空間があっても、武家御城を中心にして、新しい城下町を作る意図があったとすれば、城周辺の構造物は、替地を与えていったん更地にしてしまうようなこともあったでしょう。
    真如堂も例外は認められなかったのかもしれません。

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