12 月 31

おなじみの石川五右衛門は安土桃山時代に出没した盗賊で豊臣秀吉の寝室に忍び込んだ際に香炉が鳴って捕らえられ釜ゆでの刑に処されたといわれています。  秀吉に 「本当の大泥棒は天下を盗ったお前だ」 と言い放った由。  盗賊の彼が人気を博した理由は、お芝居などの演題としてとりあげられ、義賊として扱われるようになったからです。  歌舞伎 「楼門五三桐」 山門の場で 「絶景かな絶景かな。春の眺めは値千金とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目から見れば、値万両、万々両。~」 と煙管片手の見得切りや辞世の句 「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」 などは有名です。  (ただし実際には南禅寺の山門の建立は五右衛門の死後の1628年です。)   その① 藤森神社の手水鉢の由来   神社の駒札によれば水鉢の台石は宇治浮島の十三重の塔の上から五番目の石を五右衛門が持ってきたものと記されています。 (真偽のほどは別として塔を地上から見あげるかぎりでは、石の色が変色しているようには見えないのですが)  その②  釜ヶ淵   東九条の東部を北から南に流れる高瀬川が鴨川に合流する所に処刑された釜が流れ着いたと伝えられています。  (釜を使った五右衛門風呂は最近では時代劇の映像でしかみられなくなりましたね)   その③ 東寺の宝蔵   食堂の東にある文覚上人再建のもの。 伝説では五右衛門が盗み入ろうとしたが「文覚上人」の威力によって入れなかった由。 その④ 盗難除け   釜茹での刑の日が12月12日。 この字を紙に書いて上下逆さにして玄関に貼っておくと泥棒除けの効用があるそうです。  その⑤ 大雲院のお墓   彼が刑場に赴く途中、当寺の門前を通りかかって、貞安上人の教化を受け、感涙したことから、死後、当寺に埋葬したそうです。  (大雲院については平成20年5月26日付のブログをご参照ください。)

(写真説明)  上から南禅寺の山門 (京都新聞の京の門より)

          宇治浮島の十三重の石塔

          藤森神社の手水鉢と台石(底にある苔生す石です)

 

 

 

 

 

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12 月 26

あたかも草薙(くさなぎ)の剣のように民家に食い込んだ鳥居の笠木と島木(写真上)に、根元は民家に宿借りしながら幹は壁を破って空中にそびえる榎の木(写真下)の不思議な姿です。    (わかりにくい場合は写真をネイルクリックしてご覧ください)   前者は左側のエステティックサロンと右側のリサイクルショップの店内でそれぞれ侵入部の先端が確認できます。  錦天満宮はもとこの地にあった時宗、歓喜光寺の鎮守社だったのですが明治維新の神仏分離令によって寺は移され(現在は山科にあります。)神社のみが残りました。   鳥居の上部が民家の私有地にかかつていたのですが鳥居を壊さずに残したものです。   後者は幅3メートルの路地に高さ10メートルの大木がそびえています。 約20年前に近隣の火災時に根元と枝にかかった2軒の店だけが類焼を免れたのです。  火事のあとのビルの建て替え工事に際して、霊験のあるご神木を残そうということで、榎の根元を掘りおこして宙吊りにして工事が終了後にまた元の場所に埋め、ビルの1階の壁に穴をあけて寿司店の調理場まで根を這わしているものです。    いずれも信仰心が生んだ、奥ゆかしい共存の姿といえそうです。

  (場所)      上は中京区西木屋町通四条上ル  寿司店

            下は中京区錦小路通新京極東入ル 錦天満宮一之鳥居

 

 

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12 月 21

“ 日本に京都があってよかった ”    これは京都市が発信のキャッチフレーズです。

京都は第二次大戦中、六大都市の中で唯一、戦略爆撃を受けなかった百万都市ですが、実はその京都が原爆投下の標的の第一に挙げられていたことを知る人は少ないようです。  そしてその当時アメリカの陸軍長官であったヘンリー・スティムソンが京都への投下を食い止めたことを知る人も少ないのです。   でもこれらの事実は特に京都の住人として知っておくべき重要なことだと思います。     終戦前マンハッタンプロジェクトと呼ばれる委員会(空軍士官3名と科学者5人で構成)が1945年5月2日にワシントンで会合し、原爆の標的にする都市を決めていました.      そして標的委員会が第三回目の会合であげた標的は京都、長崎、新潟の順でした。  京都の場合の具体的なターゲットは梅小路蒸気機関車庫とターンテーブル(転車台)とされていました。 それは上空から見分けやすく、京都盆地のほぼ中央にあり、原爆の破壊力を試すには絶好の位置だったからです。    しかしこのリストを見たスティムソンは京都は歴史的な都市であり、日本人の宗教の中心地であると強く反対しました。  3日後の委員会でも他の委員が強く京都を主張し、それを支持する者もいて会議は紛糾しました。  そこでスティムソンは京都を標的から外すよう2度にわたってトルーマン大統領に要請して了解を得たのです。   若しこの人物がいなかったら、日本の文化の中核が壊滅していたかもしれないのです。      

(写真説明)    上は故ヘンリー・スティムソン氏 

           中央は京都タワーから見た京都市内

           下は梅小路蒸気機関車舘の扇形車庫と転車台

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12 月 14

   混沌とした人間社会を

憂うるかのごとく,二体の不動明王が大樹の幹からこの世を凝視されています。

 

写真中央の一体は醍醐の腹帯地蔵、善願寺(写真上)にあります。   樹齢1000年を超える神木の榧(かや)の木に不動尊が現れる夢を見た当時の住職が仏師に依頼して生木に彫った不動尊です。  約30年経過した今も形を変えることもなく健在です。    また写真下の一体は東寺の境内で見られます。  樹齢約50年のくすのきに現れた不動尊と思える姿が目撃されて話題を呼んでいます。   前者は西村公朝、大仏師によって、生の立ち木に彫られた珍しい仏像です。    また後者は自然発生的に出現した仏像らしき姿です。

(場所) 善願寺  伏見区醍醐南里町(本堂の東,上の写真の木です。)

      東寺   南区九条町(東寺、講堂の西側)

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12 月 01

小野篁 (オノノタカムラ 802年~852年) が六道珍皇寺の井戸から毎夜、冥土通いをして閻魔大王に仕えたという伝説は有名ですが、朝になると嵯峨六道町の福正寺(現薬師寺に合併)の空井戸から現世に戻るのを常としていたそうです。    あるとき地獄に行った小野篁は、猛火のなかで苦しむ亡者を救い、その身代わりとなって焼かれている地蔵菩薩の慈悲の姿を見てその尊さに打たれ、この世に戻ってから、早速、地蔵尊を彫刻し冥土の出口にあった福正寺に祀りました。   冥土からこの世に戻ることを「生まれる」ととらえ、そこが「六道」からの出口であることから、この出口を「生六道」といい、この地蔵菩薩は生六道菩薩と呼ばれるようになりました。   珍皇寺の「往きの井戸」は一つですが福正寺の「帰りの井戸」は何故か七つもの井戸が竹やぶから発見されたそうです。  (福正寺にあったと言われる空井戸は、残念ながら現在は残っていません)            また薬師寺の本尊は弘法大師が嵯峨天皇の命により神護寺で彫刻した心経秘鍵薬師如来といい秘仏として祀られています。   もう一つの寺宝としては船上阿弥陀三尊像があります。  恵心僧都が生身の阿弥陀仏を拝することを願って清涼寺に7日間参籠し祈念されると満行の日に高貴な尼僧が現れ,その導きによって、紫雲の中から船に乗った阿弥陀三尊が姿を現し、観音勢至菩薩が魯や櫂で雲の波を漕いで西の空へと去ってゆくのを拝することができたそうです。   僧都はこの感動を後世に伝えようと、阿弥陀三尊の像を彫刻し当寺にのこされたといいます。

(写真説明)   上は薬師寺の正面入り口     下、中央は生六道地蔵菩薩、左は小野篁像、

          右は聖徳太子像

(場所)      右京区嵯峨釈迦堂藤之木町46  

(ご注意)     通常は非公開になっています。

 

                      

   京都の紅葉もそろそろ終りを迎えましたね。  でも今月の14日までは「花なび」に

   絞ってお楽しみ頂きたいと思います。    一番うえの段の「花なび」をクリックして

   ご覧ください。  

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