植物園の話題と点描 北山杉の里
9 月 01

円山応挙(1733~1795)は丹波の穴太(現亀岡市)の農家の生まれ。  はじめは狩野派の石田幽汀に学びましたが、その後、彼独自の新しい画風としての写生画を完成しました。          三井寺円満院門主の知遇も得るなど画家としての名声は高まり円山派の祖として京都画壇の礎を築きました。 応挙がいかに画筆に忠実であったかを知るうえでのエピソードがあります。    彼が描いた猪の寝姿の図を見た老翁に病気の猪であることを指摘され、写生の場所に行って調べてみると確かに病死していたことがわかり、改めて健康な猪に書き換えた話。 また馬は草を喰うときに、草で眼を傷つけるのを避けて眼をとじるもの。 しかし描かれた馬は鼻づらを草むらの中に入れて眼を開けていたので明き盲の馬だろうといわれて躊躇なく書き直したなどです。

応挙は四条通り堺町東入る南側に住み(宅跡の碑があります)大雲院(5月26日のブログをご参照)を製作の拠点にしていました。 1788年の天明の大火で大雲院のアトリエが焼失の後は一時、郷里の亀岡、金剛寺に移りました。          応挙とその一門の筆になる障壁画が応挙寺と呼ばれる大乗寺[兵庫県香住)に165面あり全て重要文化財に指定されています。  これらの作品群は既に,レプリカへの入れ替が決定していますので、実物を本来の形で見られるのはいまのうちです。 なお墓所は太秦の悟真寺の境内墓地にあります。  なお金剛寺は応挙が子供の頃に世話になり、また大乗寺は修行中の貧しい頃、当時の住職に学資の援助を受けたご恩返しとして障壁画を描いたそうです。         なお亀岡市の穴太寺(西国三十三所観音巡礼の第21番札所)の東側の空き地に応挙生誕の地の石碑があります。

(写真説明)   上 は大乗寺の芭蕉の間の「郭子儀図」

           (応挙が55歳のときの作品)

           中 は大乗寺の円山応挙の像、

           下 は応挙の墓所。(広隆寺の東北隅、

           悟真寺の境内墓地)     

           

 

 

 

 

 

written by sakuragai6


感想が4つあります to “円山応挙スタディ”

  1. 1. ヘルブラウ Says:

    応挙は斬新ですよね。
    いつの時代にも流派から距離をおくことによって
    新しい独自のものを作っていく人間がいるんだ
    ということがわかるようです。
    はやいうちに実物をみておきたくなっています。

  2. 2. sakuragai6 Says:

    ヘルブラウさま
    いつも有難うございます。  応挙の作品は祗園祭の山鉾にも登場しています。  それは「月鉾」の屋根裏の草花図と「保昌山」の前懸と胴懸の下絵です。  また応挙寺には弟子の呉春や長沢芦雪の作品も展示されていました。 、お寺の人の話では若冲など江戸絵画コレクターのジョー・プライス氏が長沢芦雪の『群猿図」の前でじっと見入って長時間,動かなかったそうです。  (人間社会を揶揄するかのような、なんとなくユーモラスな作品でした)

  3. 3. yamana Says:

    20日ほど前、東京で応挙vs芦雪を見ました。
    軍配は芦雪に上げます。
    二次元の世界をぶち破る躍動感と、愛嬌に満ちた可愛らしさが同居するという奇跡。

    でも蕭白はさらにすごかった。
    頭の中がぐるぐるまわるまさに「狂気」の「画」。

  4. 4. sakuragai6 Says:

    yamanaさま
    異端の画家と呼ばれるほど個性的な作風の蕭白は、奇行やエピソードも多かったようですね。   「絵を望まば我に乞うべし、絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし」と語ったとも伝えられています。  
    和歌山の串本にある応挙芦雪舘(無量寺)も面白そうですね。
    京都の洛東遺芳舘(4月15日付のブログをご参照)が10月1日から秋の公開をしますが「生き物たちの絵」のテーマで応挙、呉春などの掛け軸や屏風などの展示も予定しています。

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