7 月 05 2008
秀次の免罪の証しを求め続ける~瑞泉寺
1595年(文禄4年)、関白秀次が謀反の疑いにより、豊臣秀吉によって高野山へ追放され、自害し、一族の子女30余人が、この地で公開処刑されました。 当時は鴨川の河原は現在の河原町まで広がっていて、このあたりは中州の荒れ河原だったそうです。 それから16年、西側の流れが角倉了以により『高瀬川」として開削護岸され、悲劇のこの地に『瑞泉寺」が建てられました。 三条木屋町という人通りの多い場所にも拘らず、意外に知られていないのか、いつ訪れても参拝者の姿は殆どみられずに境内は閑散としています。 秀次は未だしも女、子供たちに対する残虐きわまりない仕打ちには義憤を感じ、いつも胸が痛みます。 大正時代の画家、甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)は秀次事件をテーマに「畜生塚」の題名で未完の大作(屏風絵)を生涯にわたって筆を加えつづけたそうです。 お寺は秀次一族の菩提寺として、鎮魂の祈りを日々捧げながら、免罪の証しを求め続けています。
( 写真説明 ) 上は瑞泉寺の正面入り口 下は豊臣秀次ほか一族の墓
( 場所 ) 中京区木屋町通り三条下ル東側
この記事へのトラックバックURL:
http://sakuragai6.kyoto-tales.net/2008-07-05-309/trackback







